Nacer Bouhanni：心に一生残る傷

スプリンターの宿命と心の葛藤

2023年10月に現役を引退したナセル・ブアニ選手は、約12年間のプロキャリアで70勝を挙げた輝かしい実績を持つスプリンターでした。しかし、そのキャリアは数えきれないほどの落車によって何度も中断され、心身に深い傷を負ってきたのです。フランスのスポーツメディアL'Équipeがオンラインで公開しているドキュメンタリー「クラッシュ、緊張下のプロトン（Crash, peloton sous tension）」の中で、彼はその胸の内を赤裸々に語っています。

「キャリアの終わり頃は、考えすぎてしまっていた。スプリント中に考える時間なんて、結局はもう遅すぎるんだ。もしあそこに行けば落車の危険がある、危険だ。もし落ちるなら、この場所で落ちた方がいい、なんてね。そんな疑問が頭をよぎるようになったら、もうスプリントする意味なんてないんだ。落車は、頭の中に一生消えない傷跡を残すんだよ」

この言葉を聞いて、皆さんはどう感じましたか？スプリンターは、勝利のために一瞬の判断と究極のリスクを負うことを強いられます。しかし、それが精神にこれほどの負担をかけるとは……。彼が語る「考える時間があれば遅すぎる」というスプリントの哲学は、まさにトッププロの境地。しかし、その境地に至るまでに払う代償があまりにも大きいことを、彼の言葉は教えてくれますね。

悪夢のツール・ド・トルコ、そして引退へ

ナセル・ブアニ選手のキャリアを決定づけた落車の一つが、アルケア・B&Bホテルズ-Samsicに所属していた2022年のツール・ド・トルコでの出来事です。彼はその時の状況を鮮明に記憶しています。「集団の10番手か15番手くらいだったと思う。みんな車輪と車輪が触れるくらいの密集状態で、最後の瞬間にまるで人間のバリケードのようなものが現れたんだ。2人の人物が道路にいたんだ」。彼はそれを避けきれず、激しく落車。「すぐにこれは深刻だと分かった。頭を支えられないんだ。救急隊が到着して、麻痺の危険があると言われた。僕は崩れ落ちたよ。家族に電話して、僕にとって自転車はもう終わりだと思った」。

想像を絶する状況ですよね。麻痺の危険性という言葉の重み。この経験が、彼にどれほどの恐怖と絶望を与えたか、胸が締め付けられる思いです。そして、数か月後の復帰戦で再び落車。この再度の落車が、彼の引退への決定打となったのです。一度大きな落車を経験すると、復帰しても以前と同じように攻められなくなる選手は少なくありません。身体的な回復はもちろんのこと、精神的なトラウマからの回復がいかに困難であるかを、彼のケースは物語っています。

「世界で最も危険なスポーツ」：ロードレースの現実

ナセル・ブアニ選手は、ロードレースを「世界で最も危険なスポーツ」だと断言します。「自転車に乗っていると、時速90km近くで走り、崖ぎりぎりをかすめることもある。僕にとって、これは世界で最も危険なスポーツだ」。彼は特に脳震盪の危険性を強調しています。

このドキュメンタリー「クラッシュ、緊張下のプロトン」には、ナセル・ブアニ選手だけでなく、ロマン・バルデ選手、チーム・グルパマFDJの監督マルク・マディオ、解説者のマリオン・ルース、そしてアントニー・テュルジス選手など、サイクルロードレース界の様々な関係者が登場し、落車問題について語っています。彼らは自身の経験を語り、危険を減らすための解決策について議論を重ねています。

確かに、ロードレースは美しい景色の中を駆け抜ける華やかなスポーツですが、その裏には常に危険が潜んでいます。高速で密集した集団走行、路面の状況、予測不能なアクシデント……。アスリートとしての限界に挑む彼らが、いかに危険と隣り合わせで戦っているかを改めて認識させられますね。

ファンとして、私たちは何を感じるべきか

私たちは、選手たちの華麗な走りに魅了され、勝利に熱狂します。しかし、そのパフォーマンスの裏には、彼らが負う計り知れないリスクと、時に生涯にわたる傷があることを忘れてはなりません。SNSでは、選手の落車を巡る議論が常に巻き起こります。安全対策の不備、選手の無謀な走り、運の悪さ。様々な意見が飛び交いますが、根底にあるのは選手たちの身を案じる気持ちでしょう。

ナセル・ブアニ選手が語った「生涯の傷跡」という言葉は、私たちファンに、ロードレースの魅力を享受するだけでなく、その危険性と向き合う責任も問いかけているように感じます。マリアンヌ・フォス選手のようなトップ選手も、常に危険と隣り合わせで走っていることを思うと、胸が苦しくなります。

このドキュメンタリーが提起する問題は、ロードレース界全体で真剣に取り組むべき課題です。技術の進化、コース設計、安全プロトコルの改善など、できることはたくさんあるはずです。私たちの愛するロードレースが、これからも最高のエンターテインメントであり続けるために、選手たちが安心して全力を出し切れる環境が整っていくことを心から願っています。