クリス・ホイ：私と妻、病と共に歩む支え合い

日本のサイクルロードレースファンの皆さん、こんにちは。メカニックの松田 翔太です。

普段は自転車という精密機械と向き合い、その「声」に耳を澄ませています。フレームの微細な振動、コンポーネントの奏でる音色、タイヤが路面を捉える感触。それら全てが、選手が最高のパフォーマンスを発揮するための情報源です。そして、その機材に命を吹き込むのは、他ならぬ選手の「魂」であり、それを支えるチームの「絆」だと、常に感じています。

今日、皆さんと共有したいのは、そんな「魂」と「絆」の強さを改めて感じさせてくれる、ある偉大なアスリートの物語です。それは、トラック競技のレジェンド、クリス・ホイ氏についてです。

自転車界のレジェンド、クリス・ホイが直面する現実

クリス・ホイ氏。その名を聞けば、多くの自転車ファン、いや、スポーツファンが、その圧倒的な強さと輝かしいキャリアを思い浮かべるでしょう。オリンピックで6個の金メダル、世界選手権で11個ものタイトルを獲得した彼は、まさに英国スポーツ界の生ける伝説であると言えます。彼のパワーとスピードは、私のような機材を扱う者から見ても、まさに「人間が機材の性能を極限まで引き出す」お手本のような存在でした。

昨年秋、彼は衝撃的な告白をしました。自身がステージ4の癌と診断され、余命が数年である可能性が高いという事実です。癌は前立腺から肩、骨盤、股関節、脊柱、肋骨へと転移しているとのこと。このニュースは、自転車界全体に深い悲しみと衝撃を与えました。彼の鋼のような肉体と精神力をもってしても、抗うことのできない病魔の存在。どれほどの絶望と向き合っているのか、想像するだけで胸が締め付けられる思いでした。

夫婦で支え合う、病との闘い

しかし、先日報じられた彼の新たなインタビューから、私は彼の「魂」のさらなる深さ、そしてそれを支える「絆」の強さを知ることになりました。彼は自身のがんとの闘いについて語る中で、妻のサラさんもまた、深刻な病と向き合っていることを明かしたのです。サラさんは、進行性の多発性硬化症という難病を患っています。

クリス氏とサラさんは結婚して15年。2人の間には、 Callum君（2014年生まれ）とChloeちゃん（2017年生まれ）という2人の子供がいます。自分自身が死と向き合い、厳しい治療を受けている最中に、愛する妻もまた、先の見えない病との闘いを強いられている。これほど過酷な状況が他にあるでしょうか。

しかし、クリス氏は語ります。「私たちはお互いを支え合っている」と。そして、「彼女が強い時、私が落ち込んでいても、彼女は揺るがない。私の視点を変え、気分を良くしてくれる。そして、私が調子が悪い時に彼女がそうしてくれるように、彼女が調子が悪い時には私もそうしていることを願っている」と。さらに、「二人同時に落ち込むことは滅多にない。通常はウノエックス・モビリティずつだ。これは暗黙のルールなんだ」と付け加えています。

この言葉に、私は夫婦の深い信頼と愛情、そして逆境にあってもユーモアを忘れない強さを感じました。まるで、タンデムバイクのように、どちらかがペダルを踏めない時はもう一方が必死に漕ぎ、二人でバランスを取りながら前へ進んでいく姿が目に浮かぶようです。機材のコンディションを完璧に保つように、彼らはお互いの心のコンディションを支え合っているのです。

絶望の中に見出す希望：チャリティイベント「ツール・ド・4」

病状の告知を受け、絶望の淵に立たされても、クリス・ホイ氏は立ち止まりませんでした。彼は、自身と同じようにステージ4の診断を受けた人々のために、何かをしたいと考えたのです。そして、チャリティイベント「ツール・ド・4」の開催を企画しました。

このイベントは、9月7日にグラスゴーにある、彼の名を冠したヴェロドロームで開催されます。目的は、コミュニティを結集し、「ステージ4」という診断に対する世間の認識を変えること。絶望的な宣告ではなく、希望を持って前向きに生きるための機会と捉え直すこと。

このイベントには、自転車界からマーク・カヴェンディッシュやジェイソン・ケニーといったスター選手が、またテニスのアンディ・マレーや水泳のアダム・ピートといった英国スポーツ界のレジェンドたちが参加を表明しているとのこと。これは、彼がどれほど多くの人々に尊敬され、愛されているかの証であり、スポーツ界全体が彼とその家族を、そして同じような困難に直面する人々を応援しようという強い意志の現れであると感じます。自転車というツールが、人々の心を繋ぎ、大きなムーブメントを生み出す力を持っていることを、改めて示してくれたのです。

哲学に学ぶ、心の持ち方

クリス氏は、古代ローマの哲学者セネカの言葉にインスピレーションを得ていると言います。「Chi si preoccupa prima del necessario, soffre più del necessario（必要以上に心配する者は、必要以上に苦しむ）」という言葉です。

未来への不安に囚われすぎず、今、この瞬間にできることに集中する。そして、必要以上の苦しみを生み出さないように、心の持ち方をコントロールする。これは、最高の機材を組むために目の前のボルト一本、ケーブル一本に集中するメカニックの姿勢にも通じるものがあるかもしれません。困難な状況であるからこそ、彼は哲学というツールを用いて、自らの精神を研ぎ澄まそうとしているのでしょう。

絆の力、そして未来への期待

クリス・ホイ氏とその家族が直面している現実は、想像を絶するほど厳しいものです。しかし、彼らはその中で、お互いを支え合い、希望を見出し、さらに同じ境遇の人々を助けようとしています。その姿は、私たちに「魂」の本当の強さ、そして「絆」の計り知れない力を教えてくれます。

9月に開催される「ツール・ド・4」。このイベントが成功し、クリス氏の願いが多くの人々に届くことを心から願っています。そして、彼とサラさん、そして彼らの子供たちが、これからも互いを支え合い、少しでも穏やかな日々を送れることを祈っています。自転車界のレジェンドが、今、人生という最も過酷なレースを走っています。私たちにできることは、彼らの闘いを心から応援し、彼らが示してくれた「絆」の力を信じることではないでしょうか。