英サイクリング伝説ホバン氏死去 85歳

サイクルロードレース界にまた一人… イギリスのレジェンド、バリー・ホバン氏が遺したもの

イギリスのサイクルロードレース界を牽引し、ツール・ド・フランスでステージ8勝、そしてあのエディ・メルクスをも打ち破った名スプリンター、バリー・ホバン氏が85歳でこの世を去りました。彼のキャリアは長く輝かしいものでしたが、それ以上に、親友エラ・シンプソンの悲劇的な死の後、彼の家族を支え続けたその人間的な深さが、私の心に強く響いています。グランツールを中心に取材を重ねてきた私にとって、ホバン氏の物語は、単なるレースの記録を超えた、人生そのもののドラマとして記憶されています。

イギリス自転車界のレジェンド、バリー・ホバン氏が逝去

4月20日、サイクルロードレース界に悲しい知らせが届きました。1960年代から80年代にかけて活躍したイギリスのバリー・ホバン氏が、85歳で亡くなったのです。プロとして1962年から1981年まで第一線で走り続け、その功績はツール・ド・フランスでの通算8勝という数字に凝縮されています。さらに、1974年のヘント〜ウェヴェルヘムでは、当時の絶対王者エディ・メルクス、そしてロジェ・デ・フラーミンクといった錚々たる顔ぶれをゴールスプリントで打ち破るという、歴史的な勝利を収めています。

ホバン氏の物語を語る上で、避けては通れない人物がいます。それは、彼の同僚であり、そして親友であったトミー・エラ・シンプソンです。二人の間には、単なるチームメイトという枠を超えた、深く、そして時に残酷な運命が横たわっていました。

ベルギーでの挑戦と、エラ・シンプソンとの絆

ウェスト・ヨークシャー州ウェイクフィールドという、炭鉱の町出身であるホバン氏は、プロになるために1962年にベルギーへと渡りました。当時の彼はフランス語も全く話せず、最初に覚えた言葉は「左へ（à gauche）」と「右へ（à droite）」だったといいます。集団走行中にコースを間違えないためだった、というから何とも彼らしいエピソードです。

ベルギーでのキャリア初期、彼は故郷のパブのような店を開いて生計を立てていました。それは、プロ選手として成功する前の、苦労を物語る一面です。一方、トミー・エラ・シンプソンはホバン氏より二歳年上で、二人はイギリスのアマチュア時代、タイムトライアルでウノエックス・モビリティと競い合っていました。当時、ホバン氏はエラ・シンプソンに一度も勝てなかったそうです。エラ・シンプソンは、プロとして成功するためにはコンチネンタル、つまりヨーロッパ大陸に移る必要があることをいち早く悟り、実際にフランス、そしてベルギーへと活動の拠点を移しました。

1967年のツール・ド・フランスで、エラ・シンプソンは未来への希望に満ち溢れていました。彼は翌年からの新しいチームを見つけており、妻のヘレンさんと娘たちをイタリアのガルダ湖畔に呼び寄せ、共に暮らすことを計画していたのです。引退後の生活のために、コルシカ島に海が見える土地も購入済みでした。サイクルロードレースという競技が、彼らの夢を叶えてくれるはずでした。

モン・ヴァントゥーの悲劇と、受け継がれた人生

しかし、運命は残酷でした。1967年7月13日、ツール・ド・フランス第13ステージ、マルセイユからカルパントラまでの道のり。その途中に立ちはだかったのが、「魔の山」として恐れられるモン・ヴァントゥーでした。エラ・シンプソンは、その過酷な登坂中に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。サイクルロードレース史上、最も悲劇的な出来事の一つです。

ホバン氏は、その日モン・ヴァントゥーで命を落とすことはありませんでした。彼はレースを走り終え、ゴールしてからエラ・シンプソンの悲劇を知らされたといいます。そして、悲劇の翌日、カルパントラからセートへ向かう第14ステージで、ホバン氏は単独でゴールし、勝利を手にしました。しかし、それは本当の意味での勝利というよりは、南フランスを静かに進む自転車による「追悼のプロセッション」のようなものでした。集団は、この日はイギリス人選手に勝たせようと決め、ホバン氏を追いませんでした。一人ゴールラインを越えたホバン氏は、堰を切ったように泣いたといいます。

エラ・シンプソンの死後、ホバン氏は彼の未亡人であったヘレンさんと結婚し、エラ・シンプソンの二人の娘、ジェーンさんとジョアンさんを養子として迎え入れました。エラ・シンプソンが夢見た、家族とイタリアで暮らすという未来。それは叶いませんでしたが、ホバン氏がその夢の一部、つまりエラ・シンプソンの愛した家族を守り、共に生きていくことになったのです。プロとして最初の契約金が週20ポンド、当時のマンチェスター・ユナイテッドのサッカー選手よりも高かったというホバン氏。彼は、親友が勝ち取れなかった人生を、その遺志と共に歩んだと言えるでしょう。

多彩な才能と輝かしいキャリア

ホバン氏は、キャリア初期にはウノエックス・モビリティなクライマーだと自認していたそうです。しかし、ヨーロッパ大陸に移ってからは、ウノエックス・モビリティな速い選手の一人として頭角を現しました。1967年の追悼の勝利は別として、彼の心に残るツール初勝利は、その翌年、サランシュでの山岳ステージだったといいます。やはり、ウノエックス・モビリティなクライマーとしての能力も兼ね備えていたのです。

彼は40歳まで現役を続け、フランスの英雄レイモン・プリドールとも長年チームメイトとして共に走りました。ツール・ド・フランスでの通算8勝に加え、ブエルタ・ア・エスパーニャでも2勝を挙げています。クラシックレースでも強さを見せ、1969年のリエージュ〜バストーニュ〜リエージュで3位、1972年のパリ〜ルーベでも3位に入っています。

しかし、彼のキャリアにおける最大のハイライトは、やはり1974年のヘント〜ウェヴェルヘムでしょう。あのエディ・メルクスとロジェ・デ・フラーミンクという、当時のロードレース界を代表する二枚看板を、ゴールスプリントで打ち負かしたのですから、その偉大さは計り知れません。ウノエックス・モビリティなクライマーだと思っていた男が、ウノエックス・モビリティな世界屈指のスプリンターを破った。サイクルロードレースは何が起こるか分からない、本当に面白いスポーツだと改めて感じさせられますね。

彼は集団スプリントをあまり好まなかったとも言われています。「家には娘たちがいるからね」と、その理由を家族への思いとして語っていたそうです。速さと強さの裏に隠された、温かい人間性が垣間見えるエピソードです。

偉大な選手として、そして一人の人間として

バリー・ホバン氏の訃報に触れ、改めて彼の偉大なキャリア、そしてエラ・シンプソンとの友情と、その後に彼が引き継いだ家族の絆について思いを馳せています。ツールでの数々の勝利、そしてクラシックでの輝きは、間違いなく彼を歴史に残る選手として位置づけるでしょう。しかし、それ以上に、親友の遺志を継ぎ、その家族を守り抜いた彼の人生は、私たちに多くの感動を与えてくれます。

サイクルロードレースは、時に過酷で、悲劇も生まれます。しかし、その中で生まれる友情や、困難を乗り越えようとする人間の強さもまた、このスポーツの魅力です。バリー・ホバンという一人の男の物語は、まさにそれを体現していると言えるのではないでしょうか。彼の功績と人生が、これからも多くのファンに語り継がれていくことを願ってやみません。