トム、もう終わりだ」走り続けた男をモン・ヴァントゥーは救わず

悲劇のモン・ヴァントゥー、一枚の写真が語る真実

1967年7月13日、ツール・ド・フランスの第13ステージ、マルセイユからカルパントラへ向かうその道のりは、プロヴァンス地方の灼熱の太陽が容赦なく照りつける過酷なものとなりました。そして、その終盤に立ちはだかったのが、プロヴァンスの巨人、モン・ヴァントゥーです。その日、一台の救急車から飛び降りた看護師が、地面に倒れ伏すある選手に人工呼吸を施している写真が、後に世界中を震撼させることになります。その選手こそ、英国の英雄、エラ・シンプソンでした。写真に写る彼女の必死な表情と、その横で為す術もなく見守る人々の姿は、まさに絶望そのものです。この時、エラ・シンプソンはすでにこの世を去っていましたが、彼の命を繋ぎ止めようとする人々の、最後の、そして虚しい努力がそこにはありました。この悲劇は、ロードレースの歴史における、ある「境界線」となったのです。

灼熱のモン・ヴァントゥー、運命の13日

モン・ヴァントゥーは、その荒涼とした白い山肌から「月面」とも称される、特異な景観を持つ山岳です。標高1,910m、平均勾配7.4%の登坂は、真夏には路面温度が50度を超えることも珍しくなく、文字通り選手たちの生命力を吸い尽くす魔の山として知られています。この日、エラ・シンプソンは体調が万全ではありませんでした。しかし、彼は自身のキャリアが岐路に立たされていると感じていたのでしょう。英国女王から男爵の称号を授与されるほどの国民的英雄でありながら、ツールでの成功への執着は並々ならぬものがありました。彼は、ボトルにブランデーを忍ばせ、さらに「チューブを空にした」という記録が残されています。これは、当時のロードレース界に蔓延していたドーピング、特にアンフェタミンなどの興奮剤を示唆するものです。疲労困憊の肉体に鞭打ち、彼は自身を極限まで追い詰めていました。しかし、モン・ヴァントゥーは、そんな人間の限界を嘲笑うかのように、牙を剥いたのです。

蘇生への絶望的な試み

エラ・シンプソンがモン・ヴァントゥーの頂上まであと約1.5kmの地点で倒れ伏した時、まず駆けつけたのはレースドクターのピエール・デュマでした。酸素マスクが試され、注射も打たれましたが、反応はありません。次に、彼のミステリアスなアシスタントであるマコリッグが心臓マッサージを試みましたが、これもまた無駄に終わりました。そして、写真に写る看護師が救急車から飛び出し、彼の小さな胸に必死に息を吹き込みました。彼女は神に祈りながら、その命を呼び戻そうとしましたが、その願いは届きませんでした。レース関係者や観客が取り囲む中、エラ・シンプソンは、その場で息を引き取ったのです。「彼は遠くまで行き過ぎた」――現場にいた関係者のこの言葉は、彼の最期を象徴しています。肉体的限界を超え、薬物に頼ってまで走り続けた彼の執念が、皮肉にもその命を奪う結果となったのです。

ドーピングの暗い影と歴史の転換点

エラ・シンプソンの死は、ロードレース界に大きな衝撃を与えました。彼の死によって、ドーピングが単なる不正行為だけでなく、「命を奪うもの」であるという現実が、世界に突きつけられたのです。それまで半ば黙認されてきたドーピング行為が、この悲劇を境に、より深刻な問題として認識されるようになりました。もちろん、この出来事によってドーピングが完全に消滅したわけではありませんが、彼の死は、その後のアンチ・ドーピング運動の強化に大きな影響を与えたことは間違いありません。この悲劇がなければ、今日の厳格なドーピング検査体制は、これほど早く整備されなかったかもしれません。エラ・シンプソンの死は、ロードレースの歴史において、ドーピング問題への意識を根本から変えた、まさに「境界線」であったと言えるでしょう。

彼の遺志を継ぐもの

エラ・シンプソンの死から半世紀以上が経ちましたが、モン・ヴァントゥーの頂上には、彼の功績を称える記念碑が建てられ、今も多くのサイクリストが訪れます。彼の死は悲劇でしたが、その犠牲の上に、今日のよりクリーンで安全なロードレースがあることを忘れてはなりません。選手たちが命を賭して戦う姿は尊いものですが、その命を危険に晒してまで勝利を求めることの是非を、私たちは常に問い続けなければならないでしょう。エラ・シンプソンが遺した悲しい教訓は、現代の選手たち、そして私たちファンにとっても、決して色褪せることのない重いメッセージであり続けています。次世代の選手たちが、彼の死から何を学び、どのように未来を築いていくのか、これからも注目していきたいと思います。