マリー・マルヴィン：幻のツール・ド・フランス

未確認の伝説、マリー・マルヴァンは本当に1908年のツール・ド・フランスを走ったのか？

サイクルロードレースの歴史を紐解くと、数々の英雄たちがその名を刻んできました。しかし、中には「伝説」として語り継がれながらも、その真偽が定かではないエピソードも存在します。今回、私が注目するのは、フランスの不屈の女性アスリート、マリー・マルヴァンにまつわる、1908年のツール・ド・フランス出場という驚くべき伝説です。彼女の輝かしい功績の中で、ひときわ異彩を放つこの話は、果たして真実なのでしょうか？ グランツール取材で培った私の視点から、この歴史の謎に深く迫っていきましょう。

「万能アスリート」マリー・マルヴァン、その驚くべき人生

マリー・マルヴァンは、20世紀初頭のフランスにおいて、まさに「万能アスリート」と呼ぶにふさわしい存在でした。アルピニストとして雪山を制し、スキーヤーとしてゲレンデを滑降。1906年には女性として初めてパリを泳ぎ切り、1909年にはナンシーから北海経由でフランスとイングランド間の気球横断を男女問わず初めて成功させました。翌年には女性として3番目に飛行機操縦士の免許を取得するなど、その功績は枚挙にいとまがありません。当時のスポーツ界、特に男性優位の時代において、彼女が成し遂げた偉業の数々は、まさに女性の社会進出と自由の象徴であったと言えるでしょう。彼女の豊かな履歴書の中でも、ひときわ目を引くのが「1908年のツール・ド・フランス出場」という記述です。真面目な伝記からウィキペディアに至るまで、至るところでこの「偉業」が繰り返されているのです。

語り継がれる「伝説」の描写と、ツールの創設者の女性観

この伝説は、ロザリー・マジオやルイーズ・ギルモといった作家たちの著書で、美しく語り継がれています。マジオの伝記によれば、マルヴァンはツール・ド・フランスに向けて猛特訓を積み、参加を申請したものの、ツールの創設者であり、ロート紙の編集長でもあったアンリ・デグランジュによって拒否されたとされています。デグランジュは、女性蔑視的な思想の持ち主として知られており、1904年には「女性アスリートほど不愉快な存在はない」と公言し、1909年には読者からの女性部門創設の要望に対し「バルーン・ダルザスやコル・ド・ポルトを削らなければならないだろう！」と嘲笑ともとれる返答をしています。しかし、マルヴァンは諦めず、1908年7月13日、正式な参加者の後を追うように、非公式ながらもパリからグラン・ブークルに挑んだというのです。マジオは、「ある証言によれば、彼女のタイムは、その年の2位に相当しただろう」とまで記しています。イタリアのアルフォンシーナ・ストラーダが1924年のジロ・デ・イタリアを完走したという歴史的事実があるだけに、フランスにも同様の女性がいたという話は、多くのファンを魅了するのです。

伝説を裏付ける「証拠」の不在

しかし、このロマンチックな伝説には、残念ながら決定的な証拠が見つかっていません。ロレーヌ大学のSTAPS（スポーツ科学技術活動）教員であるフランソワーズ・バロンは、自身の著書『マリー・マルヴァン：スポーツの冒険へ』の中で、「ツール・ド・フランスについては、あらゆる資料を探したが、証明できるものは見つからなかった」と述べています。彼女が参加を申し出た可能性は否定しないものの、他の活動については新聞記事などが残っているにもかかわらず、ツールに関する記事が一切見当たらないことに疑問を呈しています。ロザリー・マジオの著書を翻訳したバーバラ・シュミットも同様に、「直接的な痕跡が見つからない」と証拠の欠如を指摘しています。フランス国立図書館のデジタルアーカイブ「ガリカ」で当時のロート紙や他の新聞を調べても、マルヴァンのツール出場に関する記事は一切見つかりません。ツール・ド・フランスの主催者であるASOも、彼女の出場記録を保有していないとのこと。さらに、マルヴァン自身が、気球による北海横断のような他の偉業については記事を書いていたにもかかわらず、ツールについては何も残していないというのも、非常に不可解な点です。1963年に貧困の中で亡くなった彼女は、日記や回顧録といった個人的な記録を一切残しておらず、その遺品も家主によって処分されてしまったという悲しい事実も、この謎を深める一因となっています。

「小さなサイクリング」から生まれた「伝説」の可能性

では、この伝説はどこから生まれたのでしょうか。ガリカのアーカイブをさらに深く掘り下げると、1910年12月25日の『ラ・レビュー・アエリエーヌ』誌に、「並外れたスポーツウーマン、マドモアゼル・マルヴァン」と題された5ページの記事が見つかります。この記事の中で、彼女のサイクリングの功績として「ナンシー-ミラノ、ナンシー-トゥールーズ、ナンシー-ボルドー、そして1908年のフランス一周（tour de France、小文字）」という記述があります。注目すべきは、この時点では「ツール・ド・フランス（Tour de France）」ではなく、「フランス一周（tour de France）」と小文字で表記されていることです。ここから、一部の記述が誇張され、やがて彼女の「小さなサイクリング」が「ツール・ド・フランス」へと昇華されていった可能性が考えられます。1913年の『レクチュール・プール・トゥース』誌には、「2000km以上の道のり、8つの峠を自転車で越え、1日平均150kmの走行！」と具体的な数字が加えられますが、実際の1908年のツール・ド・フランスは総距離約4500kmで、最長ステージは415km、最短でも254kmと、この記述とは大きくかけ離れています。マルヴァン自身が、晩年に「少し虚言癖があったように感じた」と語るマルセル・コルディエのような人物に出会ったことも、この伝説の伝播に影響を与えたかもしれません。ルイーズ・ギルモは、「彼女の人生にはフィクションが大きく含まれている。しかし、ツール・ド・フランスの話が全くの嘘だとは思わない。何らかの形で実行したはずだ」と、その複雑な真実を示唆しています。

マリー・マルヴァンのツール・ド・フランス出場伝説は、彼女の類稀なる人生と、当時の女性アスリートを取り巻く環境、そして歴史の記録の曖昧さが複雑に絡み合って生まれたものと言えるでしょう。この謎は、ロレーヌ大学が論文助成金を出すなど、現在も研究が続けられています。今後、どこかの古い荷物の中から、あるいは地方の小さな新聞の片隅から、この伝説の真実を明らかにする新たな証拠が発見されるかもしれません。マリー・マルヴァンの真実が、いつか歴史の光の下に晒される日が来ることを、私も心待ちにしています。